No
22

草原の春 道子パソコン画

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2年生の授業で紙芝居・桃太郎をしました。
授業私の1、2年の教科書には「新日本語の基礎」を使いました。タジク人女性教師が2年前から使っていたのでそのまま引き継ぎました。
彼女は実は英語の教師で「ひらがな、カタカナ」が読めるだけで、漢字は全く読めません。簡単な日本語会話はできますが、単語は全てタジク語でふりがなを付けて覚えていました。いわゆる「タジク語のルビ打ち」です。
ちょっと日本行ったことがあるので日本語科に回され彼女も気の毒でした。
この大学の日本語科は開設3年目を迎えていましたが、日本語教師がいないので、日本大使館員の奥さんが週に3回ほどボランティアで教えたり、スラブ大学の日本語好きの教授が講師で来たりしてなんとかしのいでいました。
授業は自習が多くほとんど遊んでいたといいます。
それでも、3年生は簡単な日本語を話せるようになっていました。
しかし、読み書き、特に漢字ができないので日本語検定試験3級程度も合格することができません。
学生は教科書らしい教科書を持っていません。教師の日本語を聞き取りノートに写すか、ロシアの日本語教科書を書き写すとかしていました。
私はまず日本大使館にコピーを頼み、学生たち全員に「新・日本語の基礎」の教科書を持たせました。一度にではなく各課ごとに少づつコピーしてもらいました。
一年生はもちろん「あいうえお」の読み書きからはじめました。
タジキスタンはソ連連邦の一つでしたから、公用語はロシア語で私語はタジク語を話しているようでした。学生たちは小学校から習っているのでロシア語が上手でした。インテリの中には母語のタジク語がうまく話せない人さえいました。
人々の会話の中にタジク語とロシア語が混在し、どちらの言葉も完全ではないという状態でした。
しかし、最近は政府が母国語の教育に力をそそいでいます。今度はロシア語が出来ない学生が増えてきて日露辞書も使えなくなりつつあります。
タジク:日本語辞書はまだないので日露辞書を学生は使いましたが、漢字が読めないので大変でした。日英辞書を使う学生も1、2人いました。
何年後かに、私の教え子が 日:タジク辞書を編纂してくれるだろうと楽しみにしているところです。「きっと作ります」と学生も言ってくれました。
夫は3年4年を受け持ちましたが、プロの日本語教師が大学にいないのですから、最初から日本語科学部長のようなものです。
全学年の授業のカリキュラムを作り、時間割も決めました。かえって仕事はやりやすかったともいえます。
夫は早朝の課外授業をして2、3年生の漢字と文法のレベルアップに努めました。
せめて3級程度の実力をつけさせたいと必死でした。
いろいろの授業を試みました。初めてのスピーチ大会、初めてのお茶や着物の体験授業など。日本の歌もたくさん教えました。
学生は平井謙の「おじいさんの古時計」「life is」やウルフルズの「明日があるさ」が大好きでした。
私たちにとって漢字圏ではない学生、しかもイスラム教の学生を教えるのは初めての経験でした。
彼らは中国の学生と全然違いました。おおらかで陽気で、そして人生に哲学を持っていました。苦労も多かったですが私たちにとっても素晴らしい一年でした。
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