大学では学生は敷地内の学生寮に全員入り、教師、事務職員、その家族もまた大学内の教職員教用のアパートに住んでいた。この当時大学は職住接近が原則であった。
朝夕、開放された大学のグラウンドを老人や子ども、犬までがウオーキングする姿はほほえましく、日本の大学とは雰囲気が違い家族的な暖かい感じがした。
私たちも大学の教職員用アパートに雑居する生活が始まった。台所とシャワー室、、ダブルベッドが一つだけ、他には何もない2Kのささやかな部屋であったが住むには十分。トイレは水洗だったので助かった。
浴槽がないのが風呂好きの私にとって残念だった。お風呂は春節休みの日本帰国まで約5ヶ月お預けであった。
野菜や肉、日用品などはすぐ外の公道に開かれた朝市でほとんど賄えるし、ちょっと足を延ばせば大きなデパートもある。
また公道で不法に営業する掘立小屋程度の安い学生向けの食堂ならごろごろある。
しかし、私たちは到着の翌日から鍋や茶碗、食材などを買い集めてなるだけ自炊することに決めた。市場で買い物するぐらいの中国語はなんとかこなすことができた。
給料は1500元(日本円で約22000円)、これは日本の派遣団体と中国の国家外国専家局との取り決めであった。北京で1か月1500元の生活は当時でもちょっときついものがあったが、二人分3000元でどうにか生活することができた。
私たちはその後10年の外国生活は、全て現地の人と同じレベルの生活をした。その中で普通の人々との生活状態もよくわかり現地の人々と飾らない付き合いをしてもらった。
私たちの授業内容
日本語科の学生は一クラス14、5名編成の少数精鋭で、本科生の中に専科生が2,3人まざった一学年一学級である。(専科とは聴講生のこと)
前期の授業は、夫が3年生の「精読」、4年生の「ゼミ」。私は2年生の「会話」に1年生の「発音・精読補助」を受け持つことになった。
後期には持ち授業の内容が少し変わり、主人は4年生の「近代文学史」と「古典文学史」、3年生の「精読」。私が2年生の「会話」と「作文」、1年生の「会話」となった。
夫の「精読」の授業は中国で編集された教科書を使って文章を読み込む内容で、日本での「現代国語」の内容に近い。
「近代文学史」や「古典文学史」の授業で使うテキストは当時中国にはなかったため、夫が自ら編集したテキストをプリントした。
中国人が行う「文学史」の授業のパターンは、それまでは筆者と著作名をひたすらに列記し、それを暗記・試験するというまことに味気ないものだったようだ。
夫はそこに時代考証と文化歴史の流れを加味して一味違った授業にするべく、ずいぶんと苦労したようであった。
また、4年生の「ゼミ」はテキストもなく方法論も全く示されないまま授業に突入した。
そこで、「中日文化比較論」的なテーマで自由に討論させ、最終的にはその異同がどこから生まれるか、という文化人類学的な方向に持っていこうとした。
しかし、中国の学生は自由討論という形式にはまったく不慣れでなかなかうまくいかなかった。
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